滋賀彦根新聞の創刊者でコラム「時評」を長年執筆してきた押谷盛利(おしたに・もりとし)氏が先月21日午後5時53分、老衰のため米原市の自宅で死去した。92歳。故人の生前よりの希望で、葬儀・告別式は24日、家族のみで営まれた。喪主は妻の崇子(たかこ)さん。後日、「お別れの会」が開かれる。
昭和34年の長浜市の日刊紙「滋賀夕刊」(当時は夕刊滋賀)の創刊当初からコラムや記事を執筆。国内外の政治や経済、教育、環境、文化、健康など幅広いテーマについて、鋭い切り口で独自の論陣を張り、読者の共感を集めた。「ニュースや世相に対する感動、主張を前向きの姿勢でストレートに訴えること」を執筆の心得としていた。近年では、彦根市長選や滋賀県知事選、国勢選挙など政治分野のほか、旧豊郷小学校の保存運動で世論をリードし、その実現を後押しした。
押谷氏は大正12年、旧東浅井郡上草野村野瀬生まれ。大阪市内の高校を卒業後、中央大学法学部に入った。学徒出陣で召集され、伏見の野砲隊を経て陸軍船舶部隊「暁部隊」として広島に派遣。「原爆投下の2週間前に佐賀県へ転属し、九死に一生を得た」と当時を振り返っていた。復員後は古里へ戻り、村の制度改革や暴力組織追放運動に取り組み、市民7000人が集った暴力追放集会は当時を知る人の語り草となっていた。昭和34年に長浜市議に初当選し、同38年に再選した。昭和50年には県議会議員に当選した。
市議初当選の年に長浜市神前町を拠点に「滋賀夕刊」を創刊。日刊の通常版に加え、伊香版、東浅井版、米原版、彦根・犬上地域では「しが彦根新聞」を発行し、湖北・湖東地域のローカルニュースを伝えてきた。
新聞発行業の傍ら、長浜文学協会を立ち上げるなど地域の文化活動を積極的に支援した。平成15年には地方自治功労で勲五等瑞宝章を受章。
「時評執筆が生きがい」と、卒寿を迎えてもなお健筆を振るっていたが、高齢を理由に今年11月26日の時評(長浜版)をもって筆を置いた。以降は自宅で隠居生活を送っていた。
◇ ◇
なお、遺族の希望で弔問、弔電、香典、供物、供花は辞退。お別れの会の日時、場所は決まり次第、滋賀夕刊、しが彦根新聞の紙面で告知する。
昭和34年の長浜市の日刊紙「滋賀夕刊」(当時は夕刊滋賀)の創刊当初からコラムや記事を執筆。国内外の政治や経済、教育、環境、文化、健康など幅広いテーマについて、鋭い切り口で独自の論陣を張り、読者の共感を集めた。「ニュースや世相に対する感動、主張を前向きの姿勢でストレートに訴えること」を執筆の心得としていた。近年では、彦根市長選や滋賀県知事選、国勢選挙など政治分野のほか、旧豊郷小学校の保存運動で世論をリードし、その実現を後押しした。
押谷氏は大正12年、旧東浅井郡上草野村野瀬生まれ。大阪市内の高校を卒業後、中央大学法学部に入った。学徒出陣で召集され、伏見の野砲隊を経て陸軍船舶部隊「暁部隊」として広島に派遣。「原爆投下の2週間前に佐賀県へ転属し、九死に一生を得た」と当時を振り返っていた。復員後は古里へ戻り、村の制度改革や暴力組織追放運動に取り組み、市民7000人が集った暴力追放集会は当時を知る人の語り草となっていた。昭和34年に長浜市議に初当選し、同38年に再選した。昭和50年には県議会議員に当選した。
市議初当選の年に長浜市神前町を拠点に「滋賀夕刊」を創刊。日刊の通常版に加え、伊香版、東浅井版、米原版、彦根・犬上地域では「しが彦根新聞」を発行し、湖北・湖東地域のローカルニュースを伝えてきた。
新聞発行業の傍ら、長浜文学協会を立ち上げるなど地域の文化活動を積極的に支援した。平成15年には地方自治功労で勲五等瑞宝章を受章。
「時評執筆が生きがい」と、卒寿を迎えてもなお健筆を振るっていたが、高齢を理由に今年11月26日の時評(長浜版)をもって筆を置いた。以降は自宅で隠居生活を送っていた。
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なお、遺族の希望で弔問、弔電、香典、供物、供花は辞退。お別れの会の日時、場所は決まり次第、滋賀夕刊、しが彦根新聞の紙面で告知する。