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彦根城博物館企画展 彦根藩の足軽―歩兵たちの近世―

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 彦根城博物館は23日から企画展「彦根藩の足軽―歩兵たちの近世―」を開いている。
 
弓と鉄砲1120人
夜回りや除雪も
 足軽は戦国時代に鉄砲や弓などで戦った歩兵で、大名の家臣団の一つとして編成。彦根藩には天正10年(1582年)頃に初代の井伊直政の下に組み込まれたとされる。関ケ原合戦や大坂の陣での活躍により、二代・直孝の時の寛永10年(1633)年には弓足軽6組120人と鉄砲足軽31組1000人を召し抱えた。この数(1120人)は直政が佐和山に入った慶長6年(1601年)頃の倍にあたり、以降も定数として維持された。
 彦根の地には外堀周辺から芹川までの外曲輪(ぐるわ)エリアに組ごとの居住区が設けられた。そのうち最大規模だった善利組(芹橋)は東西約750㍍、南北約300㍍のエリアに整備され、幕末期には約700戸の屋敷があった。
 足軽の主な業務は軍事鍛錬や武具の管理のほか、夜回りや火消し番、町奉行所など役所仕事、彦根城の石垣普請や除雪作業など。幕末には異国船に対する相模国(神奈川県)三浦半島の海岸警衛や長州藩との戦いにも従事。明治時代になると、家臣団が解体され、旧彦根藩の足軽たちは農業や商業、警察官などに転身し、大東義徹など政治家になる者も現れた。
 
足軽大将が掟書
農業や商業に転身
 企画展では彦根藩の足軽たちの編成時期から、太平の世での役割、幕末期の変容、解体後などに関する資料51点を展示。
 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のうち、若江(東大阪市)で井伊家と木村重成隊が戦った様子を描いた江戸時代後期作の「大坂夏の陣図(若江合戦図)」=縦156・9㌢×横361・2㌢=には、左手に井伊家の足軽ら赤備えの戦士たちが確認できる。
 足軽は江戸時代にかけて450人から550人いた彦根藩士には入らないが、各組トップの物頭と呼ばれる足軽大将には彦根藩士が就任。文政5年(1822年)の物頭の青木新右衛門が書いた「掟」書には普請業など足軽が務めるべき基本的な遵守事項が定められている。
 藩主として初めて国入りする入部の際の儀礼として文化9年(1812年)と同10年に行われた武芸稽古の様子を書いた「御入部御覧留(おんにゅうぶごらんどめ)」には、七代・直惟から十二代・直亮までの入部時に披露された弓と鉄砲の武芸の結果が「―(的から外れる)」、「〇(的中)」、「●(中央に命中)」で足軽たちの名前入りで記されている。
 絵「竹に虎図」は足軽の大舘素雪(おおだてそせつ)が描いた作品。素雪は天保7年(1836年)に藩で作成した彦根御城下惣絵図の絵図役にも入っている。明治時代の「中嶋勘次郎願書」は足軽だった勘次郎が百姓に転業するため、道具などの資金50両から60両の前借りを願い出ている文書。
 開館日時は8月31日までの午前8時半~午後5時。図録「彦根藩の足軽=歩兵たちの近世」の販売も。

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