彦根城内の木俣家屋敷跡の将来的な一般公開に向けて、枯れ木などを除去する作業がさきごろ行われ、彦根城のスタッフや市文化財課職員らが参加した。
木俣家は徳川家から井伊家に仕え、大坂の陣後に筆頭家老になった重臣。元禄8年(1695年)には452人の家人がいた。知行は江戸時代初期が4000石だったが、享保7年(1722年)には大名クラスの1万石まで加増された。
屋敷は当初、彦根城の山崎郭にあったが、元和元年(1615年)から同8年にかけての第二期の築城工事時に現在の地に移ったとされる。敷地内には天明5年(1785年)の棟札が残る約80平方㍍の主屋の一部が現存し、そこには3室の座敷と、板戸で仕切られた入側(廊下)と縁がある。門を入って石畳の正面に見える玄関や左手の長屋は明治時代に建てられたという。奥には持仏堂と呼ばれる建物もある。約4100平方㍍の庭園には杉や竹などの樹木が生い茂っている。
彦根城運営管理センターは城内で働くスタッフや文化財課の職員たちに呼びかけて計約20人で「管理応援団」を結成。彦根城の世界遺産登録を目指す中で、対象遺構にも入っている重臣屋敷の代表格にあたる木俣家屋敷跡の整備を開始した。
この日は、彦根城博物館の講堂で十八代当主の井伊直岳さん(52)から木俣家や屋敷について学んだ後、木俣家屋敷跡に移動し、庭園や建物周辺の枯れた樹木を切り取って除去した。9月に2回目の作業を行い、今年度中にあと数回の作業を予定。来年度以降、市が建物と庭園の調査を行い、整備計画や実施設計を経て、本格的な整備と庭園の公開を進める計画だ。
宮川敏明所長(55)は「木俣家屋敷跡は現在の玄関口にあたる場所にある。世界遺産登録に向けて、市民レベルで応援するきっかけ作りとして整備をしていきたい」と話している。管理応援団の団員も募っている。問い合わせは彦根城運営管理センター☎(22)2742。
木俣家は徳川家から井伊家に仕え、大坂の陣後に筆頭家老になった重臣。元禄8年(1695年)には452人の家人がいた。知行は江戸時代初期が4000石だったが、享保7年(1722年)には大名クラスの1万石まで加増された。
屋敷は当初、彦根城の山崎郭にあったが、元和元年(1615年)から同8年にかけての第二期の築城工事時に現在の地に移ったとされる。敷地内には天明5年(1785年)の棟札が残る約80平方㍍の主屋の一部が現存し、そこには3室の座敷と、板戸で仕切られた入側(廊下)と縁がある。門を入って石畳の正面に見える玄関や左手の長屋は明治時代に建てられたという。奥には持仏堂と呼ばれる建物もある。約4100平方㍍の庭園には杉や竹などの樹木が生い茂っている。
彦根城運営管理センターは城内で働くスタッフや文化財課の職員たちに呼びかけて計約20人で「管理応援団」を結成。彦根城の世界遺産登録を目指す中で、対象遺構にも入っている重臣屋敷の代表格にあたる木俣家屋敷跡の整備を開始した。
この日は、彦根城博物館の講堂で十八代当主の井伊直岳さん(52)から木俣家や屋敷について学んだ後、木俣家屋敷跡に移動し、庭園や建物周辺の枯れた樹木を切り取って除去した。9月に2回目の作業を行い、今年度中にあと数回の作業を予定。来年度以降、市が建物と庭園の調査を行い、整備計画や実施設計を経て、本格的な整備と庭園の公開を進める計画だ。
宮川敏明所長(55)は「木俣家屋敷跡は現在の玄関口にあたる場所にある。世界遺産登録に向けて、市民レベルで応援するきっかけ作りとして整備をしていきたい」と話している。管理応援団の団員も募っている。問い合わせは彦根城運営管理センター☎(22)2742。