慶応4年~明治2年(1868年〜69年)の戊辰戦争以降に国のために戦って亡くなった滋賀県内の戦死者の御英霊3万4750柱を祀っている彦根市尾末町の県護国神社(山本賢司宮司)。建立された時期やその変遷、参拝の意義などを紹介する。【山田貴之】
明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。同8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士507人と協議の上で現在の地に招魂社を造営することになり、神社創立委員長には旧彦根藩士で衆院議員も務めた大東義徹が就任した。翌年5月に竣工され、御英霊26柱が祀られた。この時には埋木舎の敷地の一部の土地が寄付されている。
明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。同8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士507人と協議の上で現在の地に招魂社を造営することになり、神社創立委員長には旧彦根藩士で衆院議員も務めた大東義徹が就任した。翌年5月に竣工され、御英霊26柱が祀られた。この時には埋木舎の敷地の一部の土地が寄付されている。
昭和14年(1939)4月に内務省の告示により、全国の招魂社が護国神社と改名され、尾末町の招魂社も滋賀県護国神社となった。当時は日中戦争の最中で、新たな戦死者の合祀が予想されたため、神域の拡張が計画。滋賀県は同年10月、護国神社のそれまでの約3400坪の敷地面積から、約8100坪に拡張し、さらに多くの参拝者の収容を確保するため、当時はいろは松に面していた本殿への正面入り口を彦根駅方面に変更して、本殿以外の建物を新改築する案を発表した。
しかし、護国神社を拡張するには、多数の民家の立ち退きが必要だったため、地元住民から反対の声があがった。翌年10月には滋賀県総合運動場の隣接地に移転することを求める要望書が県に提出されたが、結局は行政と地権者との間で話し合いが行われ、同16年に現在の地で造営工事が行われた。
昭和20年8月15日に敗戦を迎え、占領軍の干渉により、滋賀県護国神社は沙々那美(さざなみ)神社と改名。その後、サンフランシスコ講和条約の締結で主権を回復し、同28年10月に再び護国神社という名称に戻された。
同32年4月に彦根市民会館が建設され、社務所などが現在地へ移築。同時に、同25年に井伊神社から護国神社の境内(現・市民会館)に移設されていた井伊家の能舞台も社務所内に移された。能舞台はその後、同60年に彦根城博物館が建設されることに伴い、同館内の元の場所へ移築された。県護国神社では平成7年4月に終戦50周年記念大祭が営まれ、同17年7月には同神社の維持に協力する団体・崇敬奉賛(すうけいほうさん)会が設立。この年の10月には終戦60周年記念の臨時大祭が営まれた。