多賀大社はこのほど、参集殿前の文化財の建物を見学してもらおうと、石を並べた小道(約100㍍)を整備。「文化財の小径(こみち)」と名付けた。「小径」沿いの文化財は以下の通り。
▽文庫=江戸時代に多賀大社の神職などを務めた車戸(くるまど)家の文庫で、昭和7年の造営時に現在地に移築された。幕末期の車戸宗功(そうこう)は勤皇の考えが強く、徳川幕府家の井伊家の領内にある中で、長州の伊藤俊介(後の博文)らと、この文庫内で密会していたという。
▽釜=寛永10年(1633)と元禄12年(1699)の銘が入った釜が2つあり、多賀大社が造営された竣工時に湯神楽に使うために寄進されたとされる。
▽神輿(みこし)庫=昭和の造営時に、参集殿の西側から移築され、当時は珍しかった鉄筋コンクリートで築造。神輿と鳳輦(ほうれん)が保管され、4月22日の古例大祭の時に町内を巡行する。
▽鐘楼=天文24年(1554)に不動院の別当・祐尊の歓進(かんじん)で鋳造されたもので、寄進者の中には浅井長政の幼名・猿夜叉も見られる。昭和61年の多賀講創設五百年の記念事業の一環で、現在地に新築された鐘楼内につり下げられた。
▽土蔵=太閤蔵とも呼ばれ、天正16年(1588)に秀吉が母・大政所の病気平癒に米1万石を寄進し、それによって築造されたと伝わる。