彦根城博物館は10月8日から11月7日まで企画展「上田道三(みちぞう)―彦根の歴史風景を描く」を開いている。
上田道三は明治41年(1908年)9月28日に市内の柴谷家に生まれた。尋常小学校6年の時に京都へ出て、画家の不染鉄(ふせんてつ)の内弟子となった。昭和7年(1932年)に京都絵画専門学校に入り、卒業後に同研究科へ進み、京都画壇の巨匠として知られた中村大三郎に師事した。同11年に父の兄の上田家の養子となり、同年7月14日に草野光子と結婚。同21年に彦根に戻り、旧土橋町で生活しながら、古書や古絵図を参考に城郭のスケッチを進め、同33年に大作「彦根城廓(かく)旧観図」を完成させた。武家屋敷や古民家の絵を描き、150㍍におよぶ大絵巻も制作した。同36年に彦根市功労者として功労賞を、同53年に滋賀県文化賞の文化功労賞を受賞。同59年3月10日に75歳で亡くなり、2年後に道三の描いた記録画が彦根市に寄贈された。
企画展では道三が描いた彦根の風景画を中心に、官展での入選作など若い時代の作品を含めた計82点を展示。道三が昭和14年に描いた「水路」は京都市内の疎水にタンポポが咲く春の風景を表現した中村大三郎画塾の創立7周年展の出品作。
昭和33年の時の「彦根城廓旧観図」は彦根城を大手側の上空から見た景色を描いた縦171㌢×横186㌢の大作。明治時代初期に取り壊された御殿や櫓、戦中戦後に埋め立てられた松原内湖が見られるのも特徴。
芹橋2丁目の辻番所などの絵「足軽屋敷の部」は約70軒の旧足軽屋敷を描いた総延長150㍍の「武家屋敷および古民家絵巻集」の一部分。昭和32年から道三が住んだ家も登場している。
「山の湯(明治の風呂屋)」は県政百年企画として昭和47年7月11日から9月21日まで朝日新聞の滋賀版で連載された「とお・むかし」の1回目の原画。明治時代の県内の生活を紹介する連載で、道三がその挿絵を担当した。連載終了後も道三は「画で見る明治の滋賀」のシリーズとして制作し、現在も120点近くが残されている。
開館は11月7日までの午前8時半~午後5時。
上田道三は明治41年(1908年)9月28日に市内の柴谷家に生まれた。尋常小学校6年の時に京都へ出て、画家の不染鉄(ふせんてつ)の内弟子となった。昭和7年(1932年)に京都絵画専門学校に入り、卒業後に同研究科へ進み、京都画壇の巨匠として知られた中村大三郎に師事した。同11年に父の兄の上田家の養子となり、同年7月14日に草野光子と結婚。同21年に彦根に戻り、旧土橋町で生活しながら、古書や古絵図を参考に城郭のスケッチを進め、同33年に大作「彦根城廓(かく)旧観図」を完成させた。武家屋敷や古民家の絵を描き、150㍍におよぶ大絵巻も制作した。同36年に彦根市功労者として功労賞を、同53年に滋賀県文化賞の文化功労賞を受賞。同59年3月10日に75歳で亡くなり、2年後に道三の描いた記録画が彦根市に寄贈された。
企画展では道三が描いた彦根の風景画を中心に、官展での入選作など若い時代の作品を含めた計82点を展示。道三が昭和14年に描いた「水路」は京都市内の疎水にタンポポが咲く春の風景を表現した中村大三郎画塾の創立7周年展の出品作。
昭和33年の時の「彦根城廓旧観図」は彦根城を大手側の上空から見た景色を描いた縦171㌢×横186㌢の大作。明治時代初期に取り壊された御殿や櫓、戦中戦後に埋め立てられた松原内湖が見られるのも特徴。
芹橋2丁目の辻番所などの絵「足軽屋敷の部」は約70軒の旧足軽屋敷を描いた総延長150㍍の「武家屋敷および古民家絵巻集」の一部分。昭和32年から道三が住んだ家も登場している。
「山の湯(明治の風呂屋)」は県政百年企画として昭和47年7月11日から9月21日まで朝日新聞の滋賀版で連載された「とお・むかし」の1回目の原画。明治時代の県内の生活を紹介する連載で、道三がその挿絵を担当した。連載終了後も道三は「画で見る明治の滋賀」のシリーズとして制作し、現在も120点近くが残されている。
開館は11月7日までの午前8時半~午後5時。