朝鮮人街道が整備された理由など、判明した歴史を紹介した本「朝鮮通信使と彦根~記録に残る井伊家のおもてなし~」が3月30日に刊行された。
著者は元彦根城博物館学芸員の野田浩子さん(49)=佐和町。2017年3月に同館を退職。10月に朝鮮通信使に関する記録333点がユネスコの世界の記憶遺産に登録され、翌月に鳥居本地区公民館で講演するのに合わせて朝鮮通信使について研究した。今回の本はその研究の中で新たにわかった内容を中心にまとめている。
朝鮮通信使は慶長12年(1607)に初めて来日し、明和元年(1764)までに計10回訪問。彦根にも朝鮮人街道を通って、宗安寺(本町)で宿泊した歴史がわかっているが、その詳細は判明していなかった。
野田さんは朝鮮側の公式の旅行記録「使行録」や宗安寺に関する史料などを読み解いた。本は1章「彦根城と朝鮮人街道の一体的整備」、2章「朝鮮人街道の成立」、3章「朝鮮通信使をもてなした彦根藩」、4章「通信使を迎えた彦根」、5章「文華をこのむ地 彦根」で構成。
本では新たにわかった歴史として、▽朝鮮人街道が元々は慶長10年に二代将軍・徳川秀忠の上洛する際に整備された▽彦根の宿では豪華な調度品がそろい、朝鮮の食器や冬服の準備、雨具・灯りを持参しての出迎え、行き届いた掃除など入念なもてなしがあった▽宗安寺への食材の搬入口はこれまで、本通り(キャッスルロード側)の黒門とされていたが、寺につながる裏口の仮設の通用口だった―ことなどを紹介している。
野田さんによると、朝鮮通信使は初代・井伊直政の子の直継時代から十代・直幸までの時に来日。特にもてなしの形式が決まった二代・直孝は江戸にいながら朝鮮通信使の成功に向けて尽力。その背景について野田さんは「譜代大名の筆頭という自負心により、随一のもてなしをするよう家臣に求めたのだろう」と分析している。
本はB6判174ページ。税抜き1800円。発行はサンライズ出版。4月10日から全国の書店で販売される。
なお30日午後1時半~宗安寺で「井伊家のおもてなし」についての野田さんの講演会もある。参加費500円。会場で著書の販売も。申し込みはサンライズ出版☎(22)0627。
彦根史談会は3月23日、野田浩子さんを講師に招き、彦根市立図書館で「朝鮮人街道 3つの謎に迫る」をテーマに講演会を開いた=写真。
「いつ何のために敷かれたのか」「いつから朝鮮人街道と呼ばれたのか」「幻の山崎茶屋の位置と休息の実態」ついて説明。そのうち江戸時代の呼び名として、美濃下海道、佐和山海道、朝鮮人道、朝鮮人街、唐人海道などをあげ「多様な呼び名があったが、明治7年に滋賀県が『朝鮮人街道』として定着した」と解説。
幻の山崎茶屋については、明暦元年(1655)の朝鮮通信使の日記に、第6回の通信使のために彦根藩が山崎の村に仮茶屋を建てたという記述を紹介。また正徳元年(1711)の第8回の通信使を担当した藩士・花木十介の記録として、通信使の上官が崇徳寺(肥田町)の山号「大智山」と書いたと推測される関連の記述を明らかにした。「大智山」の書(扁額)は現在も崇徳寺で保管されている。